2013年2月28日木曜日

2月分活動報告


2月の頭、2日と3日に、熊野川翔学米特別企画と号して、現役大学生の講義企画を実施しました。「何だそれ?」という話ですが、「翔学米コンテストを実施します!」と告知して、募集をかけて、応募をただただ待つというだけでは味気ない。せっかくだから、海外をフィールドに活躍している現役大学生を呼んで地元の中高生と交流する機会を設けよう!…ということで、昨年末に思い立った企画です。
2日土曜日にFacebookを駆使した世界一周の体験者で、現在インバウンド観光を軸にした生き方を模索中の青木優さん。3日日曜日に、早稲田の先輩で、五大陸版ドラゴン桜プロジェクト「e-Education」の代表として大活躍中の税所篤快さんをそれぞれお呼びしました。


実は講師の2人とも面識がなく()、青木さんとはfacebookで、税所さんとはゼミの先輩に連絡先を聞いてメールでお伺いを立てたのですが、両方とも即快諾してくれたことには驚きました。
で、本企画告知の傍ら、この講義企画についても市内で募集をかけにかけまくったのですが、中高生の総参加人数は6人。更にその6人のうち、4人は柴田さんの家庭教師の教え子+その友達3人が芋づる式に参加してくれたもので、実質、自分の広報によりやってきてくれた中高生は2人だけということになります。


好意で広報を手伝ってくれた方がいたのですが、その方曰く「(会場の)敷屋は遠い。(息子・娘)を送っていくにしても途中の道路、路面凍結が心配」と仰った保護者さんがいたとか、いないとか。新宮市街の一部の人にとっては旧熊野川町一帯って未だに未知のエリアだったりするのだろうか、と思うとともに、日本の道路で事故ることを心配してたら、とてもじゃないけど、息子・娘を未成年で海外に遣るなんて思わんだろうなぁ、と(苦笑)。先月、今月と、自転車で足しげく新宮⇔日足・敷屋間を通い詰めている身としては、この話を聞いて何とも言えない気分になりました。私の広報の不手際も多々あったのは厳然たる事実ですので、それを棚に上げてものを言うのもどうかと思うのですが、それにしてもこの結果は純粋にただただショックです。自分の感覚と地方の中高生の感覚のズレは相当ある、やっぱり色んな子と実際に会って、色々と話してみんことには到底分かるもんではないなぁと。


ただ、集まってくれた中高生の人数こそ、それほど多くはなかったものの、近所の佐々木さんなどの精力的な()宣伝のおかげで、子ども達の倍近くの近隣の方々にお越しいただけることとなりました。ですから、体裁としてはそれなりのものになりましたし、肝心の内容に関してもとても素晴らしいものとなりました。


まず1日目の青木さんですが、彼の世界一周時の体験談を基軸に、そこから学んだこと、以降の活動、大学卒業後に取組みたいことを織り交ぜて50分ほどプレゼンテーションしていただいたのが前半。後半1時間ちょっとは質疑を兼ねたフリートークにお付き合い願いました。青木さんは「人生は今住んでいる場所だけではない」、「原体験にこそ価値がある」という2つのメッセージをまとめの際に発していましたが、私も全く同じ思いです。中学、高校の段階では、ピンと来なかったかもしれませんが、今すぐではなくとも、いつか潜在的にでも、このメッセージが彼らのために役立ってくれればな、と思います。


2日目の税所さんのプレゼン力は圧巻でした。絶えることなく聴衆の笑いを誘いながら、自分の活動の髄は、漏らさずしっかり聞かせる。80分という大学の講義並みの尺のプレゼンだったのですが、終始全く飽きの来させない内容でした。前半の熱気そのままに、後半のフリートークの時間も会話の応酬は絶えることなく、澱みなく時間が流れ、あっという間に予定の時刻を過ぎてしまいました。中高生はもちろんのこと、大人の方々にとっても新鮮で印象的な半日になったようです。税所さんは僕ら世代では群を抜いたスーパースターなのですが、参加者にはその理由が十二分に分かってもらえたのではないでしょうか。


私が今回、少人数制で、かつ市街の人から見ればいささか不便であろう敷屋に会場を設定したのには、一応の理由があります(※当初は高校を借りようとしていたので後付けといえば後付けの理由にはなります)。大人数で、壇上と聴衆の境がある講演会は、聞いた当初こそ「勉強になった」「頑張るぞ」と一念発起するものの、経験則上その一念の多くは一日限りのもの、3日もすればきれいすっかり忘れてしまうというものが殆どな気がしています。だから、私は金と時間を使って講演に行くくらいなら、BOOKOFFなりAmazonなりで、その講師の著書(著書がある人であれば)を買ってその一日で読み切った方がよっぽど自分のためになるんじゃないか、と基本的には思っています。


ただ、じゃあ「ある分野の著名人・専門家を呼んで話を聞く」という形式が全く無意味だと思っているかというとそういう訳ではありません。生身の著者が来てくれれば、本のような一方的な情報発信ではなく、聴衆と双方向で交流する場を創ることができる可能性があります。著者からの問題提起をお互いの会話を通して深堀りしていくことができる。


また、先ほど否定した「一念発起」効果についても、ただ話を聞いた場合と、実際に話者と話が出来た場合とでは全く効力が違う。こういう僕なりの問題意識を持って、「人を呼んで話をしてもらおう」というイベントを考えた場合、当然のことながら、少人数制でゲストと参加者の壁を取っ払って行うという条件は必須なわけです。その条件に旧敷屋小はぴたりと合致しますし、他の会場と違って時間制限のようなものにも一々気を遣わずに済みます。


今回は司会の自分の力量不足で、十分に場と機会を活かせなかったという反省はあります。ただ、その一方で、「これはやる価値があるな」という手ごたえ、自分の狙いの正しさもある程度感じられた2日間でもありました。今回は単発でのイベントになりましたが、かつての「何でも相談塾」のように、東京に帰っても何らかの形で断続して大学生×中高生(+地元の人)イベントが出来たらな、と思います。
また、僕は講演だったり、対談だったりのイベントに出向くときは、必ずその登壇者について下調べしてから行きますが、他人に関しても程度の差はあれそうしてくるだろうと無意識的に思っていた節があります。でも、今回、何にも知らずに興味本位で来てくれて、かつ少なからぬ刺激を受けたという方が何人もいらっしゃいました。そういった意味で、今まで未知の分野だった人と人を繋ぐことも、こういうイベントの意義だったりするのかなぁと漠然と考えたりもしました。


先月に引き続き、今月は新宮での活動が多かったです。特筆すべき出来事としては、22日、23日と市街で翔学米の企画説明会を実施した他、先月の報告書でもチラッと触れた中高生向けの大学受験説明会でゲスト()として喋ってきました。その説明会について二三ほど。

僕は添え物程度に専ら高校生当時の学生生活と受験勉強の取り組み方について喋っただけですが、全体は新宮のような地方都市では少し珍しいだろうな、という熱の入れ具合で、東京の大手予備校ばりに準ずるくらい手厚い受験入門イベントとなっていました。このときのことを巡って、数日経った今でも、悶々としています。


紀南の子の大学受験のスタンスを又聞きながら聞いていると、些か平和すぎるというか、呑気すぎるという気は確かにします。どうせ受験するのであれば、もうちっと本腰を入れて取り組んだ方がよかろう…とは思う。


ただ、当日の話にもあった「高卒と大卒とではここまで生涯年収が違う。大学受験は機会の平等が開かれている最後の機会。だから、大いに頑張ってくれ」という理由で-厳密に言えば、そうした理由「だけ」で-今の時代の中高生に大学受験を薦めるというのは少し違う気がするのです。
今月は地元育ちの方々とIターン者とで「真の豊かさとは何か」なんて大仰な議題で話し合う何とも珍奇な集会もあって、その時の一つの答えとして「11人がささやかな生き甲斐を持って自己肯定して生きていければよい」というような、そんなようなニュアンスの答えがありました。僕もこれに何ら付け加えるところはありません。


子ども達がそれぞれのやり方で、やりがいを見つけ、自己肯定して生きていけるように、その探求を状況に応じてサポートしてあげるのがいわゆる「教育」という分野の役割であり、先に歩んでいる「先輩」、「大人」の一つの役目であろうかと思います(念のため断っておくと「自己肯定して生きること」に必ずしも「やりがいを見つけること」は必要でないということは11月の報告書でphaさんや勝山さんについて2,3記した通りです)


中高生がその辺のことを模索するに辺り、大学、その中でも名門と言われる大学に進学することを薦めることはあながち間違いとはいえないと思います。しかし、その薦めが高度経済成長期のパラダイムに基づいてなされるのはどうなのか。時代錯誤の薦めで、大学に進学する意欲を駆り立てられて、入学した子の、その後の歩みは果たしてどうなるのか。都市と地方、あるいは学校によって、あるいは家庭によって、程度差はあるでしょうが、今の日本の混迷の一因は、大人の子どもに対する「誤誘導」にあるんじゃなかろうか。…そんなことの周縁をウダウダ彷徨って、少し鬱然とした気持ちになっています。
どういう内容でどういう方法で、今の現状は開けるのか。その辺の整理は僕にしても未だきちんとついていません。今回取り組んでいる「熊野川翔学米」もある意味ではその模索の一つと言いうるかもしれない。ただ、最近、悶々の中で、おぼろげながら新しく2つ取り組みたいことが出来てきました。


1つは今の日本を、中高生を取り巻く「現状」をある程度正しく伝えてあげたいということです。現状認識を誤ると人によってはそこからの歩みに致命的な誤差が生まれることがありえます。諸々の判断の大本になる「現状」に関する情報を、一方では、ある程度自立的に学ぶ力を身につけて欲しいという願いがありつつも、もう一方では、ある程度はこちらから伝えてあげたいという気持ちがあります自分を取り巻く社会の現状をある程度理解してから、そこから、どんな道を歩んでいくかを決めるのは個々人の裁量次第です。


もう1つは、日本にも多様な歩み方をしている人がいるということ。そして、そうした人々が歩んできた具体的な道筋を知らせてあげたいということです。


十人十色の人生の歩み方があると建前は言いつつ、数に限りある職業の陳列・羅列でしか子どもたちに針路を示しえなかったのが今までの「進路教育」でした。職業だけに重点を置くと、人生の幅はものすごく狭いように感じてしまう。そうではなく、一人ひとりが自分ならではの「価値観」や「目標」を基軸として、自分なりの進度、自分なりの方法でそれを体現、実現していくことが大事なんだということ。「職に就く」ということはそのための一つの手段に過ぎないんだということを中高生にはなるべく早い段階で気づいて欲しいと思っています。これを理解した前と後とでは見える光景が全く違ってくると思うのです。その気づきのために。あるいは、その気づきのあとに、自分なりの人生戦略を練り上げていく一助としてもらうために、一般的な日本人の平均値から外れた、型にはまらない生き方を実践している人を紹介すると共に、その人の歩みの過程を、ある程度詳しく可視化して紹介することができないかな、と考えています。


まだかなり曖昧模糊とした状態ですが、この2つを実現するためには、情報を詰め込んで体系的に伝えられるような媒体が必要となる。それには、何らかの冊子を、自分なりに実際に纏め上げてみるのが一番なのかなぁ、というところまで今行き着いています。前者は「中高生向け」という限定の下でなら一つの雑誌を創れるだろうし、後者であれば10人なり、50人なり、100人なりのインタビュー集を編める。仮にも自分は元マスコミ志望で、ナリワイ的な生き方をするにあたってもジャーナリズムを一つの軸としてやれることならやっていきたいと思っているわけですから、あちらに帰ってから新宮に舞い戻ってくるまでの期間に実践の一つや二つをやってきても全くおかしくはないし、むしろ、将来のことを考えればそうして当然なんだろうなという気もします。復学後の宿題です。


それと、全くもって蛇足なことながら、不肖田斉は今月18日で21回目の誕生日を迎えました。木琴演奏&トトロコスプレ&ペンギンデコレーションケーキの3点セットという何とも身に余る祝い方をしていただいて、恐縮しきりでした。成人最初の1年をここ新宮の地で踏めてよかったなぁと改めてしみじみ感じます(盛大に祝ってもらえたというだけではもちろんないですよ!)。早いもので、こちらでの休学も残すところあと1ヵ月となりました。本当にあっという間だった。来月、東京に戻るのだという実感が未だにいまいち湧きません。


…今月はこんなところでしょうか。それではまた来月にお会いしましょう。

2013年1月31日木曜日

1月分活動報告



あけましておめでとうございます。正月は結局、当初の予定よりやや日にちが延びて、6日の朝まで実家に滞在してました。専ら帰省期間は家でゆったりしたり、高校・大学の同期と飲み食いしておりました。おかげで英気は十分に養えたかと思います。三が日には親戚の面々が一堂に会す機会があり、内心何を言われるかビクビクしていたのですが、特に事が荒立つことなく(むしろ穏便、順風に)済んでホッとしました。ただ、あと1年間休学したい、卒業後は新宮に住みたいという明確な意思表示はその場では出来ず(正月くらい平穏に過ごしたかったので…)一波乱、二波乱この先に待っていそうです。いやはや…。
7日の夜、新宮に戻ってきてからは、2週間弱ほど、しみーさんの家に滞在させてもらいました。市街の中高生へ翔学米のコンテスト企画諸々を告知するための下準備と実際の告知のためです。


ただただ自省するしかないのですが、期限付きの事業+他人との協力をある程度仰ぐ必要が出てくる事業では、やはりある程度計画的に具体的な日程を考えて行動することは必要不可欠なことだと痛感しました。市内の中高生に向けて配るビラや街頭告知用のポスターは新宮に舞い戻った時点では完成していませんでした。風呂敷残業()で帰省中に仕上げてくる気満々だったのですが、しみーさん邸の共用PCにしか入っていないフォントをイラストレーターで使ってしまっていたりして、結局あまり進めることはできず。新宮に戻っての最初の数日間はずっとその完成作業に付きっきりでした。慣れた人なら半日足らずで終わらせてしまうような作業でも、Adobeのイラレを今まで全く使ったことのない、正真正銘のずぶの素人ではなかなかてこずるものです。手に負いかねる部分もやはり出てきます。まだ、その時は大阪に帰省中で、ゆったりしていたかったであろうしみーさんにはなかなか煩わしかったでしょうが、ちょくちょく質問やお願いを繰り返すことになってしまいました。そんなこんなで、チラシを配り始められたのは9日、ポスターの掲示開始は15日にそれぞれなりはしましたが、おかげさまで出来栄えとしてはそこまで遜色のないものを作り上げることができたのではないかな、と思います。


ただ、単に出来ただけでは何にもならず、チラシもポスターも実際に人に配ったり、人目の付くところに置いてもらうことで初めて価値が生まれてきます。今までアルバイトは色々と経験して来ましたが、その中でも街頭のビラ配りは最も不向きだと感じたものの一つ。もっと言ってしまえば、やってて一番なぁなぁ、嫌々になったものの一つでした(苦笑)。僕の容貌からして、不審者に見間違われるんじゃないかという心配もある(苦笑)。そもそも、新宮の子らは、チラシを配られるという経験に慣れてないだろうし…。…しかし、まぁこの期に及んで四の五の言ってはいられません。毎朝毎夕、校門前や駅前など学生の往来が盛んなところにたってビラ配りを続けていました。


配布率自体は思ったよりも良好で、通りかかった大体の生徒さんに受け取ってもらえました(8時を過ぎると皆ドバァっと一気に登校してくるので、その人数の多さに対して渡し切れないというケースは多々ありました)。反射的にではあるのでしょうが、少なからぬ子が「ありがとうございます」なんて言ってくれるので、こちらとしては面食らった感すらあります。ポスターにしてみても、ダメ元で聞いてみると、案外貼ってくれるもので驚きました。特に新宮のおばちゃん連は非常に優しい。それと、迷惑がかかるかもしれないので、どことは言いませんが、大手チェーンの系列でも貼ってくれる所もあったりしました。「民間の方の掲示物を一度貼ってしまうと、どれが貼ってよくて、どれがダメでという線引きが難しくなってしまいまして…。学校関係、行政関係しか基本的にはお引き受けできないんです」というのが断りの常套文句です。まぁ理屈は通ってますし、こちらもダメ元で伺ってはいるので、断られても別に何とも思わないのですが、やはり貼ってもらえると嬉しいもの。多少公共性のある取組みということもあるのでしょうが、地方ならではの個人裁量、判断の緩さというのも些か関係してくるんだろうなぁと思ったりもしました。


ただし、繰り返しにはなりますが、撒けた数は大して問題ではなく、潜在的に海外に興味を持っている子ども達にどれだけ届けられているかが問題になります。

2週間ほどの市街での活動で、チラシは一応各校一定数配れ、ポスターも要所要所に貼らせてもらえたつもりではいますが、今のところ特に目立った反応はありません。「渡航計画を各自で考えて、それを提出してください」という形式のものであるので、撒いて即応募が来るという性質のものではないと分かってはいるのですが、それでもやはりちょっと不安なところはあります。どれだけの数の、どんな内容の応募を、どんな子がしてくるのか…。向こう12か月は不安と期待半々で待つことになるでしょうが、焦らず待ちたいところではあります。


熊野新聞をはじめとした地元紙の皆さんにはちょくちょく活動を取り上げていただいてるとはいえ、まともな感性の持ち主なら、ポッと出の余所者が「海外往復渡航費を全額援助」などと言っていたら、まずは怪しむのがまぁ当然のところなのではないかなぁと思います。特に、こういう突飛な出来ごとに慣れてない人は尚更なのではないか、と。多分先に述べた通学路でのチラシ配りにしても、僕のようなパッとしない、ずぼらな格好の人間が配っていたら(極力気は回してはいますが)マイナス要素こそあれ、それがプラスに働くことはまずないでしょう(苦笑)


まぁ、ちょっと-思考で考えすぎかもしれません。直接的にも間接的にも市内での評判は聞いたことがないので、杞憂に過ぎぬことを祈りますが、学生や保護者、あるいは教員の方に数人知り合いがいれば、もっとすんなり浸透させる手立てがあるろうにな、と思わざるをえません。
最初の数年度、この初年度や学生時代ぐらいは費用・時間を度外視して、企画・宣伝・広報に尽力できるでしょうが、実際に移り住んでからは、今のように何から何までガッツリ手間をかけることはなかなか難しくなるでしょう。「翔学米」は大掛かりに組織化せずとも、一個人が出来る範囲で誰もが無理せず取り組める企画として創りあげました。

米をある程度余剰に生産できる農家が1人や2人いて、購入者がいれば一応の形にはなります。包装・発送についてもまだ節約、手間削減の余地はありますし、広報にしてみても金をかけられなければかけられないでやる道は十分にある。もし、不作の場合、あるいは米の収量は十分にあっても売上が十分でなかった場合、また翔学米外の事情で恐らくその年は余裕がないという場合…そういう年は企画を実施できないというケースが仮に出てこなくともよいと思っています。


企画維持すること自体が目的化してしまったり、規模を拡大しすぎて外部に依存しなくては立ち行かなくなる状況になることは絶対に避けたいです。

しかしながら、「独力でやっていける体制を整えておくこと」は極めて大事ですが、それは「独力でやらねばならない」ということを必ずしも意味しません。むしろ、企画をより充実した形で運営していくためには、人の力を借りられる部分に関しては大いにお借りしたいと考えています。
数年間継続して企画に取組んでいく中で「あぁ翔学米か、今年もやってんのね」と思ってもらえるだけの認知度と信頼感を築いていって、その中で協力してくれる学生や保護者、教職員の方々も現れてくれたらな、と、今夢想しています。5年、10年とかかることでしょうが、そんな状態になったときには、翔学米に限らず、皆さんがもっと有意で多彩な活動を市内で展開できるようになっていることでしょう。
そうそう。活動中、お会いした某塾の先生に、大学の受験説明会をしたいから喋ってほしい。また、東京に戻った後、現役大学生として塾報にコラムを書いてほしいというような提案を受けたことがありました。それを実際にお引きするかどうかはさておいて、今までになかった視点で「ハッ」とさせられる思いがしました。もちろん特定の塾だけ、特定の塾の生徒さんだけと付き合いを持つということになってしまってはつまりませんが、アプローチ方法はもっと柔軟に考えなければなりませんね。

そんなこんなで敷屋に戻ってこれたのは1月の第4週のことでした。その時期に、2週間ほどの期間での滞在希望者がいたのですが、タイミングが悪く、その方以外、皆、敷屋から出払ってしまうという事態になってしまいました。「事態が事態でもあるし、一度戻るか」ということでようやく帰ってきたわけです。

今回の訪問者は京都のハードコア系バンドのベースマンさんで、phaさんのtwitterを見たことがきっかけで来られたとのこと。僕はその手の音楽には疎いのですが、バンド名を聞いて検索をかけたところwikiにも載っていたので、その道では有名なバンドなのではないかと思います。本当にいろんな方がいらっしゃいます。

本来、客人のお世話のために戻ってきたはずなのですが、料理の上手い彼に逆にお世話されっぱなしです。簡単なお料理もいくつか教えてもらいました。ホストとゲストの立場が完全に逆転していて申し訳ない気もしますが、すっかり甘えてしまっています(苦笑)

…今月はこんなところでしょうか。それではまた来月にお会いしましょう。

2012年12月31日月曜日

12月分活動報告

 すっかり冬になり、布団も3枚、4枚と重ねねば、なかなか寝つけなくなるくらい冷え込んできました。これでも、まだまだ寒くなるらしい。私は極度の寒がりなのですが、まだ寒さの底が来ないうちに着込んでいては真冬のシーズンに凍死するんじゃないかと思って(防寒具を大して持ち込んでないのです…)昼は上2枚、夜は+ちゃんちゃんこでとりあえずは踏みとどまっています。私がいかにもガタガタガタガタ寒そうにいるもんですから、周りからは「痩せ我慢せずに着ればいいじゃん」とも言われるのですが、12月いっぱいはこのまま頑張りたいと思います(苦笑)


昨月スタートさせた「翔学米」ですが、早々と取らぬ狸の皮算用というか、目論見の甘さが露呈する格好となりました(苦笑)お米の販売、実は告知後1週間や2週間そこらで10袋くらいは即売できるんじゃないかと慢心していたのです。しかしながら12月頭の時点では半分の5袋にも達していませんでした。

そういう訳で販売の伸び悩み+社会人とのつながりの浅さ少なさを痛感した私は、まず単純な思い付きから、自分の母校(早稲田)の同好会組織である稲門会に活動をアピールしに行かせてもらうことにしました。
稲門会というのは、企業名+稲門会、地域名+稲門会、サークル名+稲門会などなど…やたら種類と数だけあることだけは知っていて、その内実については全く知り得ていなかったのですが、和歌山県の稲門会については、定期的に懇親の場を設けたり、県内のOBOGが活躍している現場に訪問したりするなど、精力的に活動されているイメージを受けました(失礼ながら、それまではOBのおじいちゃんたちが季節ごとに1回くらい顔見せ程度に開催しているというイメージがありました苦笑)。皆さん、得体のしれない若造の話にも関わらずよくよく耳を傾けてくれました。会の解散後、OG1人には和歌山市内の観光名所を地元のおばさん方と一緒にドライブでざーっと巡っていただくという親切もしていただきました。


また、その稲門会での出会いをきっかけに三重県尾鷲市で行われる紀州熊野応援団というNPOの全国イベントにも参加する運びにもなりました。紀州熊野地域に暮らす人々と全国各地に暮らす人々との懸け橋となり、紀州熊野地域の潜在的資源と全国各地の潜在的需要とを上手くマッチングさせるための活動を展開している団体です。稲門会には5日に出向いたのですが、その3日後に、偶然このイベントが控えていたのです。


 内容としては、前半にメインゲストの増田寛也元総務大臣が基調講演として「地域が今輝くために」と題して、今後の地域づくりのための方向性を示唆する話を1時間。後半は南紀で活躍する事業家の皆さんの活動紹介とそれに対する増田さんの寸評が行われたというような具合でした。司会の方と偶然、お昼をご一緒する機会があったことが伏線となり、後半の質疑応答の時間では「新宮での活動を紹介してください」と私に話がいきなり振られるというハプニング()もありました。200名超の人数がいる会場だったので、緊張しすぎて(私は極度のアガリ症です)しどろもどろにならないように必死で、何を話したかイマイチよく覚えていないのですが、後々聞いたところによれば、内容の質はともかく気概は何とか示せていたようでよかったと思います。

 その後は、会場を移動して、ビュッフェ形式でご馳走を摘まみながら参加者の皆さんと懇談。翌日は同市の早田(「はいだ」と読みます)という漁港で朝一、獲れたての海の幸を昼ご飯がいらなくなるくらい、たらふくいただいた後(下ろしたてのハガツオの刺身は今まで食べてきたものの中でも10指に入るくらい美味しかったです)、早田の区長さんに区の概要と過疎・少子高齢化に対する活動事例をご紹介いただいたのち、若干の意見交換をして、敷屋への帰路につきました。


さてさて、この2つの会合の訪問を通して多くの出会いがあったわけですが、結果、どのようなことが今後生まれてくるかは正直分かりません…(苦笑)一期一会の機会をどれだけ生かしきれたかも分かりません。和歌山市行きの時は会合の後、市内の名所をドライブして巡っていただいたり、尾鷲の方も尾鷲の方で、見方によっては豪華グルメツアー的な様相を呈していたわけで、お前は道楽しに行っとったんかという誹りをある意味受けかねない面はあります…(苦笑)


 ただ一つ直感的に思ったこと。貴重な出会いも多々ありましたし(特に大学のOBOGの方々)、ここから繋がっていくご縁ももちろんあるだろうとは思ったのですが、ただ同時に、多分、人との生きた繋がりって一緒に活動したり知恵を絞ったりするなかで基本的には築かれていくものなんだろうな、と。色々と考えさせられた数日間の飛び込み訪問()でした。


12月といえば真っ先に連想するのはクリスマスですが、クリスマスの3日前にはさやさんの誕生日会がありました。いつもこの手のイベントを統括しているのが彼女であることのみならず、共育学舎人は平素並々ならぬお世話をさやさんから受けているので、皆いつも以上に張り切っていました。男子勢(なおきさんと僕)の役割は料理全般と会場の装飾と、イベントの大部分を任されることになりました。

コンセプト、理想としては「いつもお世話になっている男子勢がこの日一日だけでも会を取り纏めてささやかながら恩返しをする」ということだったのだと思いますが、当日まで、というか当日の予定開催時間をオーバーするまで、てんやわんやでした。かなさん(※夏に中期滞在していた関大を休学中の女性です。11月からまた来てくれていました)がいなければ、どうなっていたことかと思います。そんなこんなで実際の実働率は多分「かなさん4.5:なおきさん4:たさい1.5」くらいで、かつ玄ちゃんの暴走()で式次第に一部狂いが生じもしたのですが、本人には何とか喜んでもらえたようでよかったです。


クリスマス当日は当日で、住人4人でケーキコンペを行うという半ば僕を吊るしあげるために企画されたかのようなイベントもありました(苦笑)24日にまず2人、25日に後の2人というように2日に分けて行われたのですが初日の2人の出来が外装・味共に素晴らしかったので余計プレッシャーがかかりました。あまりの出来レース感に少し憤慨、発奮して、シュトーレンといういかにも高度そうなケーキにチャレンジしようとして大穴を狙おうとしたのですが、全力で制止され、諌められました。しょげました。


結局、21日の誕生日会と同じ製法でケーキを作ることにしたのですが、全部が全部同じではあまりにも癪なのでカスタードクリームを中に仕込んでみることにしました。結果、焼きあがったと思ったケーキの中からカスタードクリームがメルトダウンしてきて、表生地が破られる一歩手前までになり、惨事になりかけるという事態が途中で発生しました。素人はやはり冒険をせずに地道な下積みを重ねていくのが一番なようです…(昔、小学校の担任に「工作」の時間の作品を評して「お前は、アイデアは中々見るもんがあるけど、それを実現する細やかさが如何せん足りんな(苦笑)」と言われたことをふと思い出しました)


とはいえ、この私が一応紛いなりにもケーキなんてもんを作れるようになったことは、成長といえば成長なのでしょうか。味自体は一応差し支えなく「食べれる」レベルで、同日の白浜の忘年会で無事皆さんにお召し上がりいただけました。


日にちは前後しますが、今月頭に就活が始まったようです。私は解禁の日は田んぼの肥になる藁をひたすら裁断するという、どうということもない1日を過ごしていましたが、Twitterの鍵アカウントが増えたり、Facebookで企業ページに「いいね!」を押す友人が、その日を区切りに徐々に増えていって「始まったんだなぁ…」ということをしみじみ感じているところです。私もこのまま普通にいけば、来年同じ立場に立つわけですが、今では、ただでさえガツガツやるつもりのなかったところが、もう全くする気がなくなりました。


就活をはじめ、今の社会は何かがおかしい…。しかし、その思いのあとに「でも…」という二の句を継いでしまっていたのが今までの私でした。それが今は何の抵抗もなく、自然に東京では就活せずに新宮に戻ってきたいなぁと思います。単純に、毎日がカルチャーショックのような生活を送ってきたせいもあろうし、情報の荒波から隔離された環境にあって、結果として世界を傍から落ち着いて見れたということ、自分の頭だけでじっくり物事を考えることができたことなんかも大きいでしょう。休学する以前より、遥かに視野が明瞭になった感がありますし、自分が大切にしたいことも明白になってきた気がします。

 
更に言えば、新宮市には人がいます。これからの時代は自分の身近で出来ることを11人が積み上げていくこと。それも各自が孤立して個々にやるのではなく、誰かと共に協力して積み上げていくことに意味があると私は思います。一人でも頑張れないことはありませんが、一緒に何かをやってくれる手伝ってくれる仲間がいたほうがやれることは大きいし、何よりその方が絶対に楽しいです。その基盤が新宮にはあるし、これから益々拡がっていくでしょう。これも大きな理由の一つであると思います(畢竟、縁ということに尽きるでしょうか)


しかしながら、就活に対する態度はだいぶ定まったものの、「じゃあ卒業して新宮で何をやるのさ」と聞かれると正直言って今の段階ではその答えには窮します。でも、それでもいいと思っています。最近、そう思えるようになりました。今までの自分は狂おしいぐらいに世間体を気にしていた。新宮で百姓になるより、NHKでディレクターとか、朝日で記者をやっていた方が多分よっぽど余所ウケがいいでしょう(親戚なんかは100%そちらの方が喜びます)。見栄からか、保身からか。就活して大企業(私の場合はマスコミ)に入る生き方に疑問を持つ一方で、その「余所ウケ」によっかかりたい自分がいたのもまた事実なのです。

…そんな状態から、以前と比べれば、今はだいぶ距離を置けているように思います。今の状態は確かに格好はつかないですが、それでも気が済むまで考えたい。自分が納得した答えが出せるまで虚勢を張るのはやめようと思います。


もしかしたら市役所や地方新聞のようなところにお世話になるかも分かりません。ただ、現時点では農的な営みは大事にしたいと、割とはっきり思っています。それは農業で食いぶち(=現金収入)を得ていくという意味ではなく、自給的な農業、食べることずばりそのものである農業を大事にして暮らしていきたいという意味で、です。農業を営み、生きる基盤を固めながら暮らしていく過程で、やりたいことが湧いた時点から、ナリワイ的なビジネスや社会貢献に取組めていけたら、とおぼろげながらに考えています。これからまだ右往左往するかも分かりませんが、見守ってやっていただければ幸いです。


 28日の夕方から、帰郷の途に着きました。夜に岐阜の大垣まで行って、「ムーンライトながら」という夜行電車に揺られて帰りました。…千葉に「帰郷」というのも何だか滑稽な感じがしますが、「里帰り」が東京、大阪都市近郊になる人、そういう人が今後は増えていくのでしょうか。少なくとも、都市と田舎の両方に拠点があるのは絶対に悪いことではありませんよね。


実は年末、帰る直前から体調が下降線です。身体は丈夫な方だと自負しているのですが、体調を崩すとしたらいつも年末、それも冬休みに入ってからなのです(気が緩むんでしょうか)。まぁせっかく実家に帰ってきてるんでしっかり養生してから新宮に戻ってきたいと思います。


…今月はこんなところでしょうか。それではまた来月末にお会いしましょう。


来年もよい年になりますように…!

2012年11月30日金曜日

11月分報告書


 今月初めに、2番穂を待っていた部分の稲を刈り終え、全ての稲刈りが終了しました。その待っていた2番穂に関しても全部が全部上手く実っていたわけではないのですが(むしろ不出来なものの方が多かったです)、わがままを言って、刈った分全てを脱穀していただく運びとなりました。付き合って下さった共育学舎の皆さんに感謝します。


さて、今年半年の大部分の精力を注ぎ込んで邁進してきた米づくりですが、出来栄えは、と言えば…失敗と言わざるを得ません(苦笑)。「今年はどこも悪かった」というような慰めの言葉を皆さんから頂戴しています。まぁ、雨季が授粉期に重なってしまった等、人為の及ばない天災も確かにあることにはありましたが、水管理がまずかったとか、根を張る時期に(草取り)田んぼに入り過ぎたとか、防げた要因、素人農法でまずかった部分も多分にあるでしょう。ただ、残念だといえば、残念ですが、不作とはいえ無事収穫を終えられたことにはただただ安堵していますし(夏は台風が来るたびにずっとびくびくしていました)、やはり感慨深いものがあります。

学生中に一度作物を紛いなりにも育て上げることを体験できたことは、自分で言うのも何ですが、とても大きなことだったと思います。基本的には人間の手なんて借りずともすくすく育つ作物の逞しさを知りました。一方で、そんな中でも人間の手が必要となる局面がいくつかあって、その要所要所の、やり方、タイミングの見極めの難しさもよくよく分かりました(難しさが分かったというだけの話で実際にちゃんとできるようになるのは先の話です)。こう、半年を振り返りながら文章を書いていると、本当に充実した毎日だったなぁと何だかほっこりしてきます。


「兄ちゃんは農家じゃないんだから、失敗も研究、経験ってことでええじゃないか」と集落のおじいちゃんに言ってもらいましたが、正にそうだと思います。仮に田舎に生活の基盤を置いていて、収量が少なかったら生活にモロに響くでしょう。そう考えると、絶対に避けたい失敗を、大学を出てからではなく今出来たことには少なからぬ意味がある、今はそんな風に捉えています(些かポジティブすぎるでしょうか)。違うおばあちゃんには「また、作りゃあえぇ」とも言ってもらいました。

僕もどのタイミングになるかは分かりませんが、必ずまたやりたいと思う。やはり、何だかんだで、たわわに実った稲穂が深々と首を垂れる稲穂は見たい!()そういった、モチベーション上の意味でも、第1回目がこういう結果で却ってよかったのかもしれません()。実際の収量はイマイチでも自分の中では大きな収穫があった米作りでした。という訳で、記念すべき第1回目の米作り、無事終了です。


併せて、温めに温めてきた()「熊野川翔学米」の封を同じく今月初めに、ようやく切ることができました。当初は「地元の若者支援」と「地元農家支援」の2つを軸に制度設計を進めてきましたが、他にも大切にしたいこと、取り組みたいことが後付け的にたくさん出てきました。企画の概要はHPhttp://simy.fem.jp/kumanogawa-shogakumai/sg.htmlを参照していただくこととして、ここではそこに載せ切れていないことを少しだけ書きたいと思います。


企画着想当初は、新宮市の一学年分全員を無償で海外に行かせられたらなぁ…なんてことをおぼろげながらに考えていました。でも、今はそれほど事業規模を大きくしたくない。むしろ大きくし過ぎてはダメなんだろうな、と考えています。まず一つは単純に、規模を大きくし過ぎると、お米を捌くことで手いっぱいになって、元々大切にしたかった所から乖離してしまう気がするからです。


むしろ小さい規模の営みであることに積極的な意義を見出したいとも思っています。何かソーシャルビジネスや社会貢献のために全てを注ぎ込むという人生はそれはそれで素敵なことです。ただ、私は、それを専業にしなくても、自分の生活を崩さない範囲で他のこともやりつつ…というスタイルでも出来ることはある。一握りの天才ではなくて(もちろんそういう人は必要です)、私のような平凡な個人でも、12つと自分の生活の中から出来ることを見つけて仲間と一緒にそれを手掛ければ、小さいながらもそれなりに有為で楽しいことができる、ということを示したい。

そんな動きがいくつもいくつも積み重なって、各地に拡がっていて、じんわりじんわりと社会が動いていく。そういう潮流が起こったら、面白いだろうなぁと思うのです(柴田さんも「11プロジェクト」の時代になったらいいよね、といったようなことをおっしゃっていました)。…まぁ、まだ実際に何もなしえていないのにこんなこと言うのはなんですけどね(苦笑)


対外的なPRとしては、柴田さんとしみーさんの悪ノリに背中を押される形で、2日の真夜中に自分のFacebookTwitterでは告知をしたことに加え、中日新聞さんの地方版とそれをチェックしてくれた日本農業新聞さんには取組みを取り上げてもらえることになりました(全国紙デビュー!笑)。今後の拡がりに期待したいところです。自分も中高生向けの企画の本格的な立案等できる限りの努力はしたいと思っています。


今月はお客さんとしてニートの達人と非常にユニークな方々が続けざまにいらっしゃいました。1人はphaさんという方で、もう1人は勝山実さんという方です。片や、日本で一番有名なニートと目され、片や引きこもり菩薩の異名を持っているという異色のコンビです()

 Phaさんは並河さんが中心となって行っている「就活にモヤッとする人へ」通称「しゅ~もや」なるイベント@京大熊野寮http://syumoya.blogspot.jp/2012_11_19_archive.htmlにゲストとして呼ばれ、そのまま並河さんに拉致()される形で敷屋までお越しになり、勝山さんは、和歌山県田辺市の講演のついでに、上富田在住で共育学舎と交流のある竹中さんという方に誘われてこちらまで遊びに来て下さいました。

 どちらのblogもお越しになるまではチェックしたことがなかったし、どちらのご著書(phaさんは『ニートの歩き方』、勝山さんは『安心引きこもりライフ』、『引きこもりカレンダー』という著作をそれぞれ上梓されています)も未だに読んでいないのですが、お2人との出会いは私にとってかなりショッキングなことでした。ナリワイの伊藤さんとはまた別の形で(といっても共通する部分も多いですが)、これからの生き方を考える上での示唆をいただいたからです。


従来自明のものとされてきた価値観やシステム、成功ルートであったりに依存して生きることの危うさ、おかしさは、今、多分少なからぬ人が感じとっているのだろうと思います。ただ、そこでの難しさは、「人の言うこと、世間の常識に頼らず(というよりかは頼れなくなり)、それに代わる価値観や、その価値観に基づく生き方を自ら創りあげていかねばならない時代になった」ということです。上手いこと自分なりの軸を築くことに成功し、それを活力の源としている人が今一般に成功者として注目されている人たちなのでしょう。それは自分には無理だと諦念して、「危なっかしくはあるけど何だかんだでまだしばらくは保つであろう」既存のレールに再び乗っかっていく人もいることでしょう。この自分の内面の軸を築く課程を、問い抜くにしろ、割り切って放棄するにしろ、そこへの向きあい方が中途半端なままでは今の時代はレールに乗るも地獄、乗らぬも地獄ということになるのだろうな、と思います。


そんな時代の中で、今、phaさんや勝山さん、あるいは三枝さんの「ただ生きている、それだけでもいいじゃないか」というニート・引きこもりの思想、生き方が世に問われるようになったことは非常に意味のあることなのだと感じます(特に先述のphaさんの『ニートの歩き方』はかなりのベストセラーらしい)。閉塞しきった日本の社会に僅かながら、確かな風穴を開くことになるのではないでしょうか。


「何のために人は生きるのか」式の自問自答を我々若造の一部はしがちです。しかし、煎じつめて考えればそんなものはないのです。また、先に述べたような価値観なんてものも(それが世間一般に通底しているものか、独自で練り上げたものかは関係なく)その立脚する基盤、根拠は非常にあやふやなものです。ですが、それでも大抵の人は、生きる意味とか、独自の価値観とか、夢とか、目標とか、そういうものにすがらなくては生きていけない。メリハリを持って生きるためには、そういうものをどうしても設定してしまうのが、私たち現代人なのだと思います。昔、私が大学1年の時、「夢を持つことが強迫観念になっている気がする」と言った先輩がいて、その時のことは非常に鮮明に覚えていますが、そういうものがあって然るべきだという圧力も一方ではあるのも事実です(それは多分、社会からという面と、自分を自分で追い詰めているという面の両方があります)だから、今の時代は世知辛いのだ、とも言えるでしょうか。


そんな中で、phaさんや勝山さんの生き方は、「田斉くん、そんな小難しいこと考えてないで、片ひじ張らずに楽に生きようよ」と語りかけてくるかのような、ある種颯爽としたものがあります。思うに、社会の一番の状態というのは、何も事が荒立たず、皆で心安らかに平穏に生きられる環境があるということに尽きると思います。そこに物質的な豊かさやいわゆる生き甲斐となるような仕事が加わってくれば、尚言うことがありませんが、一番先に来るのはやはり「ただ平穏無事に生きられる環境がある」ということでしょう。

最近、グローバル競争を煽る声がやたら盛んなように思いますが、それとて、なぜそんな競争をするのかといえば、そこから金を稼いで、一部は自身の家族のために、一部は社会全体の幸福のために税金として、というように「生活」のために競争をするという順序に本来はなるのだと思います。

ところが、今は、競争競争、グローバル化グローバル化の声がやたらけたたましく、肝心の「生活」の存立が危ぶまれるほどに激化している感がある。唐突にグローバル競争の話を持ち出しましたが、これは一例で、このように本末転倒な事態は日本で、いや世界のいたるところで噴出している。ニートや引きこもりの哲学(哲学とまでいうのは大袈裟かもしれませんが)はこのおかしな現状に一石を投じるものとなると思います。進歩や夢をやたらと尊重してきた私たちにとって「ただ生きているというだけでもいいんだ」ということを肯定することはある意味とても勇気がいることですが、これから成熟した社会を築いていく上では極めて大切なことのように思います。

いや、「むしろただ生きていられるということが大事なんだ」というぐらいな考え方でもいいかもしれません(そこまでいくと、再びそれが自分の拠るべき独自の価値観ともなってきますが笑)。…まぁ、いずれにせよ、これからどんな生き方を選択するにしても、こういう人たちがいる、こういう生き方があるということはぜひ多くの人に知っておいてほしいなと、強く感じました。


ただ、多分、この境地に至るまでには(あくまで類推ですが)それなりに鬱々とした期間をお2人とも過ごされたことでしょう。ある種の実践も必要だったでしょう。また、こういう人たちの考えの価値を理解して、納得して、自分の血肉にするには、結局一度は悩んでみる他ないのでしょう(というより、今の世の中に全くもって疑問を持ったことのないという人には、ある意味、全くもって無価値な考え方かも分かりません)。ただし、phaさんや勝山さんの考えが本やブログ等の形でおおっぴらにされ、多数の読者を得ていくということは、今悩む人に安堵と極限まで追い込まれた際の逃げ道を与え、これから悩む人の、その苦悶の時間をより少なくすることに繋がっていくのではないでしょうか。そこから、実際に新たな生き方の萌芽が生まれてくるということもあるかもしれません。


ご両人とも、熊野川町、共育学舎という場所にはなかなか強烈な印象を持たれたようで、phaさんはお帰りになった後、

『田舎はオープンワールドRPGみたいだった』http://d.hatena.ne.jp/pha/20121127/1354011976

という試験的段階的に田舎生活にもシフトすることを示唆する衝撃的な記事を書き、
勝山さんに関しても自身のblog『鳴かず飛ばず働かず』で引きこもり村、引きこもりスラムの創設の可能性についてかなり熱っぽく言及していますhttp://ponchi-blog.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/1-8e4d.html(<その1>と書いてある辺りまだまだ続きがありそうです)

実際にそういう動きが起こる…かも!?今後の展開が非常に楽しみです。

…今月はこんなところでしょうか。それではまた来月末にお会いしましょう。